知る
谷秦山
谷秦山は1663年、土佐藩郷士の家にうまれた。名を重遠、丹三郎と称し秦山を号とする。
幼少より学問に優れ、17歳の時に上京。野中兼山らと親交のあった大儒山崎闇斎の門下に入り、高弟の浅見絅斎に師事した。さらに同門の渋川春海に学び、天文・暦学・神道を治めた。
特に、野中兼山の失脚以来、四散状態にあった南海朱子学・土佐南学の継承発展に大きな功績を残した。
土佐南学は室町期より戦国七守護の一人、弘岡吉良峰城主吉良氏に招かれた学僧南村梅軒を祖とする朱子学の学派であり、藩政期に入り谷時中により興隆期を迎え山崎闇斎や野中兼山に受け継がれた。
類まれなる学才に加え、貧苦に耐えながらの刻苦勉励は藩侯の認めるところとなり、秦山は土佐藩の儒官として仕官するところとなる。
しかし、前述のように兼山失脚後の藩内においては、南学は四散状態であり幕府直轄の朱子学派である林派の学が主流をしめるようになっていた。
南学は朱子学の解釈学にとどまることなく、義理名分と実践躬行を重んじる学統であり、衆望を担うべき政治家としての武士の在り方にも言及し藩政にもしばし直言をもってあたることもあり、時の藩学の主流との軋轢も生じた。また、秦山は従来の朱子学の中国文化崇拝の普遍主義を克服し、国家神道等の研究等から得た日本独自の文化を重んじる国体論を唱えた。このことは勤皇思想につながり武家による政治支配である幕藩体制にとっては容認しかねるところもあったと思われる。
やがて秦山は藩内の藩主交代にかかわる事件に連座し、全くの無実の罪を着せられ、45歳の時、山田の地に閉門蟄居を命じられることとなる。この幽閉は死の直前まで十年以上に及ぶが、秦山は決して天も人も恨まず己の運命を嘆くこともなく、幽囚の身をむしろ好機として昼は読書し成果を書にまとめ、夜は天体観測に勤しむ日々を淡々と過ごしたという。
晩年になり、外出を許される身になったが、間もなく、山田中町への買い物から帰宅し庭にて漢方薬を干していたところ俄に頭痛を発し床につき、妻に看取られて息を引き取った。五十六歳であった。
国の史跡に指定され、その業績を讃え崇敬する後世の人々により整えられた墓域であるが、墓を立派にすることを厳しく禁じた谷家の家訓にならい、自然の川原石に「谷丹三郎重遠墓」とだけ刻まれた小さく質素な墓である。
里山の森にひっそりと佇むこの墓所に頭を垂れる時、我々は学び探究するということの重さと志を持つことの気高さを森の清澄な空気とともに感じることが出来る。
大量消費社会と言われる現代の日本にとっては学問も教育も意地汚く消費されていないだろうか?お金を稼げる人になるために勉強をする。出世して人より高い地位に立つために良い大学を目指す。そんな動機で施される教育の中に果たして“学問”の二文字は存在するのだろうか?
人の生の本質はどこにあるのか?万物を生あるものものとして生かす大自然の摂理とは何なのか?行きつく果てのない命題と格闘する秦山にとって、その先に存在する真理はいかなる権力の容喙も許さず、いかなる財力の消費も許さない“世界精神”なのであろう。痴乱興亡の世の中にあって人は競い合うように先を急ぐ。学びの世界とて同様である。学問は本来とは事物の前に立ち止まり、不条理の前に立ち尽くすためにするものではあるまいか。
自らの身体が朽ち果てることなど意に介さず、ただひたすらに道を歩いた秦山。「学の独立」という言葉があるが、秦山の人生にこそこの言葉の本質がある。
やがて秦山が再興した南学の灯は、土佐の若者の熱き血脈として受け継がれ。維新回天に大きな役割を果たすことになる。
墓所には志を立て様々な受験の難関を乗り越えようとする若者たちの祈願が絶えることがない。“学ぶ”という本質は時代を経ても不変である。三百年の時を越えてそのことを語りかけてくれる学聖谷秦山を私は尊敬と親しみを込めて「秦山先生」と呼ぶ。
幼少より学問に優れ、17歳の時に上京。野中兼山らと親交のあった大儒山崎闇斎の門下に入り、高弟の浅見絅斎に師事した。さらに同門の渋川春海に学び、天文・暦学・神道を治めた。
特に、野中兼山の失脚以来、四散状態にあった南海朱子学・土佐南学の継承発展に大きな功績を残した。
土佐南学は室町期より戦国七守護の一人、弘岡吉良峰城主吉良氏に招かれた学僧南村梅軒を祖とする朱子学の学派であり、藩政期に入り谷時中により興隆期を迎え山崎闇斎や野中兼山に受け継がれた。
類まれなる学才に加え、貧苦に耐えながらの刻苦勉励は藩侯の認めるところとなり、秦山は土佐藩の儒官として仕官するところとなる。
しかし、前述のように兼山失脚後の藩内においては、南学は四散状態であり幕府直轄の朱子学派である林派の学が主流をしめるようになっていた。
南学は朱子学の解釈学にとどまることなく、義理名分と実践躬行を重んじる学統であり、衆望を担うべき政治家としての武士の在り方にも言及し藩政にもしばし直言をもってあたることもあり、時の藩学の主流との軋轢も生じた。また、秦山は従来の朱子学の中国文化崇拝の普遍主義を克服し、国家神道等の研究等から得た日本独自の文化を重んじる国体論を唱えた。このことは勤皇思想につながり武家による政治支配である幕藩体制にとっては容認しかねるところもあったと思われる。
やがて秦山は藩内の藩主交代にかかわる事件に連座し、全くの無実の罪を着せられ、45歳の時、山田の地に閉門蟄居を命じられることとなる。この幽閉は死の直前まで十年以上に及ぶが、秦山は決して天も人も恨まず己の運命を嘆くこともなく、幽囚の身をむしろ好機として昼は読書し成果を書にまとめ、夜は天体観測に勤しむ日々を淡々と過ごしたという。
晩年になり、外出を許される身になったが、間もなく、山田中町への買い物から帰宅し庭にて漢方薬を干していたところ俄に頭痛を発し床につき、妻に看取られて息を引き取った。五十六歳であった。
国の史跡に指定され、その業績を讃え崇敬する後世の人々により整えられた墓域であるが、墓を立派にすることを厳しく禁じた谷家の家訓にならい、自然の川原石に「谷丹三郎重遠墓」とだけ刻まれた小さく質素な墓である。
里山の森にひっそりと佇むこの墓所に頭を垂れる時、我々は学び探究するということの重さと志を持つことの気高さを森の清澄な空気とともに感じることが出来る。
大量消費社会と言われる現代の日本にとっては学問も教育も意地汚く消費されていないだろうか?お金を稼げる人になるために勉強をする。出世して人より高い地位に立つために良い大学を目指す。そんな動機で施される教育の中に果たして“学問”の二文字は存在するのだろうか?
人の生の本質はどこにあるのか?万物を生あるものものとして生かす大自然の摂理とは何なのか?行きつく果てのない命題と格闘する秦山にとって、その先に存在する真理はいかなる権力の容喙も許さず、いかなる財力の消費も許さない“世界精神”なのであろう。痴乱興亡の世の中にあって人は競い合うように先を急ぐ。学びの世界とて同様である。学問は本来とは事物の前に立ち止まり、不条理の前に立ち尽くすためにするものではあるまいか。
自らの身体が朽ち果てることなど意に介さず、ただひたすらに道を歩いた秦山。「学の独立」という言葉があるが、秦山の人生にこそこの言葉の本質がある。
やがて秦山が再興した南学の灯は、土佐の若者の熱き血脈として受け継がれ。維新回天に大きな役割を果たすことになる。
墓所には志を立て様々な受験の難関を乗り越えようとする若者たちの祈願が絶えることがない。“学ぶ”という本質は時代を経ても不変である。三百年の時を越えてそのことを語りかけてくれる学聖谷秦山を私は尊敬と親しみを込めて「秦山先生」と呼ぶ。