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平家伝説

御在所山の画像

保元、平治の乱を経て朝廷に優位の立場を得た武家の中でさらに源氏との権力闘争も制し、権勢を不動のものにした平清盛。ついには正一位太政大臣と権門の頂点に上り詰め一代で平家一門の栄華を築いた。「平家であらずんば人にあらず」。あまりに強大で社稷をなすがままとする平家一門の政権であったが、やがて清盛を院政の頼りとした後白河法皇ら朝廷からの反発を招き、それに呼応する源氏の政権打倒の動きが次第に表面化する。自らの孫にあたる言仁親王(安徳天皇)が天皇に即位し、ついには念願の「外戚」となった清盛も、源氏による各地での蜂起が続く中まもなくその生涯を終えることとなる。

清盛の没後、木曽義仲の侵攻にはじまる源氏方の勢いを貴族化した平家の公達らではもはや防ぐ術もなく、一門の錦の御旗である幼帝を伴い、西国に向け滅亡の道をたどる旅に出ることとなる。

後白河法皇の院宣を受けた源頼朝の命により弟義経の軍が討伐に西下し、平家は一の谷の奇襲作戦に惨敗、さらには安徳帝の行宮がおかれる屋島の合戦にて瀬戸の海に追われた平家一門はついに終焉の時を迎える。外祖母二位ノ尼に抱かれた安徳帝は壇ノ浦の海に八歳の生涯を閉じ、平家一門の栄耀栄華もここに泡と消える。
天皇の森の画像

これが、平家物語等に語られる正史である。しかし、時の戦況やその時代の貴族や武家の習慣、各地に残る説話等を考証すると安徳天皇の入水説には疑問も残り、壇ノ浦後の帝御幸伝説や一門の公達の潜行伝説が各地に伝えられ、近来その研究も進んできた。その中には極めて高い信憑性を裏付ける口伝や遺品を多く残すものもある。ここ韮生 槙山郷における伝承もその一つである。地名や逸話のみならず、昔日の実話を彷彿させる遺跡や遺品も伝えられ、我々を正史の裏に隠された秘め事の世界に誘ってくれる。

韮生郷、槙山郷に残る数々の伝説の地には安徳天皇をはじめ、一門の公達、供奉の公卿や武者たちなど様々な人々にまつわる伝承が残されているが、代表的なものは次に紹介する通りである。
高板山御陵周辺の画像

源義経軍の奇襲により惨敗を喫した平家は讃岐屋島の行宮に御幸していた錦の御旗、安徳天皇を避難させることとなる。屋島には後に二位ノ尼とともに壇ノ浦の海に沈む影人天皇が残される。天皇一行は海路淡路を経て阿波の地に入り、山御所と呼ばれた屋島本陣の後背地である山中に潜む。果てもない西行の旅と厳しい逃避行の中で幼い帝は一時健康を害するが、山中の隠棲により回復をし、生母建礼門院とひと時を過ごすため母のいる屋島の本陣へ向かう。母との久々の再開に天皇とは言え幼児である安徳帝は一時もその傍を離れず、幸せな時を過ごしていたという。しかしそれも束の間。義経軍が屋島本陣を目指し間近に迫るとの斥候の知らせが再び母子を引き裂くこととなる。健礼門院は身に付けた髪飾りを「これを母と思いなさい」と形見に渡し、帝一行は遍路姿に変装し、慌ただしく屋島を後にする。この後一行は阿波の山中深く分け入り、剣山に一時潜幸するも厳しい寒さに耐えかねて下山、祖谷の古味や栗枝戸に一時行宮を置いた。帝の潜幸には清盛の弟で門脇中納言と呼ばれた平教盛をはじめ壱岐判官藤原知康や高僧徳庵大尚らが供奉していたと言われる。この阿波の山中には深手を負い自害したとされた剛勇の武将で教盛の子である教経(国盛)や壇ノ浦で入水したとされる資盛の軍なども合流。再会を喜び合った。
高板山御陵周辺の画像

しかし、この地も安住の地とはならず、さらに帝一行は四国の山中深く分け入る。祖谷より土佐に入り西熊から笹を経て韮生郷、高板山赤牛に至り行宮を営み、しばしの平安を得るものの、激烈な運命に導かれた長旅は帝の幼い御身体を次第に蝕んでいった。深山幽谷にあって、母の居る都に思いをめぐらす日々のうちについに高熱を発する。山中にあっては充分な薬膏を施すこともままならず、無念にも10歳の春秋を一期に崩御されたのである。帝の玉体は教盛ら従者により葬儀ののち、高板山赤牛に設けた殯宮の場所に手厚く葬られた。
女池の画像

供奉の武将らはその陵を御殯大明神として祀り、周辺の神池や楮佐古、安丸、または峠を越えた祖谷の地などに陵を囲むように隠棲し遥拝、慰霊の場を設け、代々山を守り田畑を耕しながら菩提を弔い続けた。

一方、阿波の地にて帝の下に終結した一門の武将の内、小松氏の祖とされる平重盛の子である資盛らは周辺から安徳帝の一行を守護し、勢力地図の隣接する安芸や夜須の源氏方を撹乱するため、影人天皇を仕立て、別府から大栃に至る槙山筋を潜行し、大栃の南方に聳える天然の要害、天王の森に砦を築き影人天皇の行宮としたという。
男池の画像

武家の棟梁である征夷大将軍の称号は源氏の血脈にのみ許される時代となり、鎌倉期から戦国乱世を経て地方の豪族らも競って源氏の出自を自称するようになり、長らく高板山の御殯大明神もその所在がわからなくなっていた。しかし近年になり供奉した一門の子孫と言われる土地の人々の伝承から、その口伝に符合する場所に口伝通りの状態で発見された。屋島の別れの際に渡された健礼門院の髪飾りなど遺品の存在も明らかとなっている。周辺に存在する遥拝施設等の故事来歴も明らかにされるようになり、平家の里としてのこの地がにわかにクローズアップされてきたのである。
高板山御陵の画像

余談かもしれないが、先の伝承を裏付けるように韮生郷筋には為近、門脇、久保など供奉した人々を祖とすることを思わせる姓が多く、槙山筋には資盛伝承のように小松姓や資盛に従ったとされる宗石等の姓を持つ人が多い。資盛の墓所と伝えられるものや、資盛が隠れ住んだとされる平家の岩屋など遺跡も伝えられている。

さらに余談を重ねると、香美市の山間部の人々が交わす土地言葉は平野部のいわゆる土佐弁と異なり、柔らかくたおやかな響きを持つ。関白一条公の下向された中村などで使われる幡多弁などに共通するものがある。穏やかで、心優しく信義に厚く品性の高さを感じさせる人柄もこの地の人の特長である。
平家の岩屋の画像

生まれながらにして余りにも苛烈な運命を背負い幼くしてこの地に果てた安徳天皇。幼き帝と運命をともにし落ち延びた貴人や、時局の切迫を顧みず暖かく一行を迎え匿ったであろう志高き人たちを祖に持つ人々は、決して自らを誇ることはしない。この地の風景と人の佇まいはむしろ控え目で、八百年有余年の時を経て未だに秘め事を抱き、慰霊と鎮魂の中にあるかのように錯覚を覚える。
安徳天皇御陵遥拝所の画像

受け継がれる歴史とはかくも重きものなのか・・・。平家伝説のこの地で守られているのは、実は私たちにとってかけがえのない日本人の心なのかもしれない。

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