知る
土佐打刃物
アジアモンスーンが運ぶ暖かい空気と多くの雨の恵みを受けた土佐の国は古くから森林資源に恵まれ、良木の産地として多くの木材を搬出していた。それに伴い、伐採、搬出に必要な打ち刃物の製造も行われていた。
また、鎌倉時代後期、徳冶元年(1306)大和国より刀鍛冶・五郎衛門吉光が土佐の国に移住し、その一派が戦国末期まで繁栄し、打ち続く戦乱の世で武具刀剣等の需要に応じたとの記録がある。
刀鍛冶と山林用刃物鍛冶は技術面でも互いに影響しあい、土佐には独特の高度な技術を有する鍛冶屋が点在していくようになった。天正18年(1519)の長宗我部地検帳には399件の鍛冶屋が記録されている。
江戸時代に入り、土佐藩の行財政改革を担った執政野中兼山は、森林資源の確保や新田の開発による産業振興に果敢に取り組む。このことにより、平野部には広大な農地が開かれ、山々は植林、造林により美林が造成されていった。必然、農業林業用の刃物の需要も拡大し土佐打刃物は生産量品質ともに格段の向上が見られた。
特に現在の香美市は、山田堰の建設により新田開発と水運の拠点となり、ここから発する井水が新たな農地を生みだし、また堰の袂である神母ノ木は山からの物資、特に搬出材の集積地ともなり、数多くの鍛冶職人が仕事場を構え製材用の鋸や山仕事用の鉈や斧、農作業用の鎌や鍬を生産するようになった。神母ノ木周辺の職人が作りだす鋸には片地村の刻印が押され、全国に名を知られるブランドとしての地位を確立していた。
また、鎌倉時代後期、徳冶元年(1306)大和国より刀鍛冶・五郎衛門吉光が土佐の国に移住し、その一派が戦国末期まで繁栄し、打ち続く戦乱の世で武具刀剣等の需要に応じたとの記録がある。
刀鍛冶と山林用刃物鍛冶は技術面でも互いに影響しあい、土佐には独特の高度な技術を有する鍛冶屋が点在していくようになった。天正18年(1519)の長宗我部地検帳には399件の鍛冶屋が記録されている。
江戸時代に入り、土佐藩の行財政改革を担った執政野中兼山は、森林資源の確保や新田の開発による産業振興に果敢に取り組む。このことにより、平野部には広大な農地が開かれ、山々は植林、造林により美林が造成されていった。必然、農業林業用の刃物の需要も拡大し土佐打刃物は生産量品質ともに格段の向上が見られた。
特に現在の香美市は、山田堰の建設により新田開発と水運の拠点となり、ここから発する井水が新たな農地を生みだし、また堰の袂である神母ノ木は山からの物資、特に搬出材の集積地ともなり、数多くの鍛冶職人が仕事場を構え製材用の鋸や山仕事用の鉈や斧、農作業用の鎌や鍬を生産するようになった。神母ノ木周辺の職人が作りだす鋸には片地村の刻印が押され、全国に名を知られるブランドとしての地位を確立していた。
多くの刃物産地が量販店の商品家庭品の需要や洋食器への転換などに対応し、機械化のより廉価品の量産化をはかるなどしていく中、土佐打刃物はあくまでも鍛冶職人の手による伝統技法にこだわり、産地を守ってきた。火床により真っ赤に焼かれた鉄が鋼と融合して、職人とハンマーの阿吽の呼吸により鍛えられ成形され刃物に生まれ変わっていく。どのような大きさでもどのような形状でも自由自在に作り上げて行く。これが土佐の自由鍛造である。槌がベルトハンマーに変わった以外は恐らく数百年変わることなく受け継がれてきた伝統の技。土佐の打刃物はいごっそう土佐人そのものであり、私たちの誇りである。平成10年には経済産業省より伝統工芸品の指定を受けた。