野中兼山

寛永13年(1636)、養父直継の死去に伴い奉行職となった野中兼山は、土佐藩執政として土佐南学に裏打ちされた強い信念と類まれなリーダーシップで藩政改革を担い治水灌漑による新田開発や在郷町の開発、港湾の整備など土佐藩発展の基礎となる事業に次々と着手して行く。

山田堰跡
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現在の香美市においては、山田堰の建設により物部川の水を治め、舟入、中井、上井の三用水の利水による新田開発が行われた。流量に比して河川距離の短い物部川は高低差の大きい急流、暴れ川としても知られ工事は困難を極め完成までに実に26年の歳月を費やした。この堰と用水の完成により、開発された水田は「堰下三万石」とも言われ、土佐藩の財政と民生の向上に大きな役割を果たした。

また、商人や職人の移住集積を進め、産業振興の拠点を整備するため在郷町の建設にも尽力した。物部川利水により引き込んだ上井用水をさらに横堀川として北東部の台地に融水し、その横堀川から等間隔に公儀の大井戸を二か所掘ることによって生活用水を確保し、居住環境を整え現在の香美市中心市街地の原型となる山田町を完成させた。山田町は地域の産業経済の拠点として栄えることとなる。

「国家百年の大計」などという言葉が現在も選挙の度毎に聞こえたりするが、兼山の手にかかった事業はまさに大局に立ち、次の時代を見据えたものであった。山田堰は300年にわたり香長平野を高知県の穀倉として潤し続け、山田の町は県中東部最大の町として地域経済に大きな役割を果たしてきた。

野中兼山邸跡
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しかし、兼山の行った事業は時にその賦役の厳しさから民衆の怨嗟を生み、儒学精神に基づいた峻厳さと信念に基づき確信に満ちた政治判断は同僚である藩政幹部からの反発や嫉妬を招き、讒言を得て失脚の憂き目に遭うことになる。失脚後、かれは香長平野の新田開発事業の拠点として構えた山田中野の別宅「明夷軒」に蟄居。一度の登城も行せず、門を閉ざし来客も拒み読書三昧の日々を過ごしていたが、間もなくにわかに病を得て四十九才の生涯をここに終えることとなる。

彼の死後、藩政壟断という無実の罪への糾弾は激しく、「死者に鞭打つ」という言葉そのものであった。遺族らは全員宿毛の地にて幽閉され、矢来に囲まれた幽閉所より一歩も外に出ることが許されず、来客も厳しい検問を経ねば面会を許されなかった。四女である婉は、その間父の極めた儒学を研究し、土佐南学中興の祖とも言われた谷秦山より文通で教えを請う。谷秦山にとって兼山は尊敬する南学の先達であり、その忘れ形見である婉と一度面会し、幽囚の身を励まし学の道を語ろうとここを訪ねるが、面会叶わず。胸張り裂んばかりの悲しみを抱いてその場を立ち去ったというエピソードもある。幽囚の一族はやがて男子がすべて息絶えるまで実に四〇年におよんだ。

野中神社(お婉堂)
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幽閉が解かれた婉は、医師として生計を立てながら、兼山や失意の中に息絶えた野中家の人々の祭祀を守り、父の汚名が晴れることを願って生きる。遺品、家財を売却した僅かな資金で、旧臣古槙氏の協力により山田上野の地に祠堂を建立し「野中神社」として祀った。

兼山を独裁政治家と見るか、稀有な民生家と見るか現代の価値観で判断を下すことの無意味さは論ずるまでもない。世に阿ることばかりに腐心し、後世はおろか現在に対しても責任ある判断を下すことが忌避する政治家の姿が目立つ昨今である。兼山が何を思いどう行動したか、そして何を後世に残したか。兼山にまつわる史跡群は我々に多くのことを語ってくれる。少なくとも事業推進のためになされた苛政については為政者兼山自身、一家断絶という悲劇を以て贖ったことを忘れてはならない。

野中神社の前には兼山の上井用水により開かれ、下っては昭和の代に国のパイロット事業によって見事に区画整理された農地が広がっている。戻って、兼山終焉の地となった中野邸跡は目前を満々と物部川の水を運ぶ舟入川が流れその向こうには秋を待たずに黄金の稲穂が頭を垂れる早場米の美田や園芸王国土佐が誇るハウス群が見渡される。

天空の婉女にはこの光景が見えるだろうか?毀誉褒貶は世の常とは言え、私たちは間違いなく先人から多くのかけがえのない宝物を受け継いでいる。兼山はもちろん、賦役に苦しみながら難工事に当たった名もなき民衆も含んで先人と呼ぶべきである。


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